誹謗中傷とインターネットの今後
どうもパンニットです。
最初に今回の内容で思うところがある人は画像の乱反射/貫井徳郎の本がオススメです
以下の4点で話します。
文章まとめる力がないのはごめんなさい
まとめ最後にあるのでそれだけでも
1.誹謗中傷者について
2.誹謗中傷を叩いてる人について
3.木村はなさんについて
4.今後のインターネットへの危惧
1.誹謗中傷者について
まずはじめにこれが「悪」なのは間違いないです。
ただその悪の性質は殺人とは異なると感じてます。
この悪の原因というのは誰もが簡単に自己正当化して、身勝手やエゴを通すことで行われ、軽い損害でしか傷を与えないだろうという点です。
それに比べて殺人は一部の人が普通そこまでやったら当然重大な損害に必ずなると分かっているという違いがあります。
僕はこのブログ内では身勝手やエゴを自動車のアクセル、ブレーキを善意や社会性、理性で表そうと思います。
そうなった時誹謗中傷というのは、ポイ捨て、犬のフン、電車内で騒ぐなどといったものと同じで多少のスピード超過程度の認識でしかないわけです。誰にとっても
当然、ポイ捨てやその他についても、拾う人とかポイ捨てしたものが庭に入ってくる、うるさいくて気が休まないなど確実に誰かの不利益、不幸、苦労の原因にはなってます。
ただお互いにそれを許容し合って当然みんなやりうること、大きなものでは無いと許容や、見逃しをしていたもののはずだったのです。
2.誹謗中傷を叩いてる人について
最初に簡単に言います。
あなた達はそれを叩くだけの行いをしてきた人か
ということです。
本来これを叩ける人というのは、上記のような自己正当化からエゴや身勝手を通すようなことをしない聖人であることや、反省して今後一切全くやらない善良な市民である必要があるはずです。
ただそんな人は当然いないはずです。
僕だってポイ捨ては6年間やっていませんが、誰かの迷惑だろうなと分かりながらも騒いだり、可哀想と思いながらも傍観者だったり、
みんな時に自分勝手やエゴを通すそういった社会の一員です。
それなのにそれを忘れて今回話題になったからと言ってその亡くなった悲しみを憤怒に変えて原因探し、そして自分を棚に上げて「正義」を振りかざして叩く。
その振りかざした「正義」は、結局自分の行為に返ってきます。
正義を真に振りかざせるのは善良な市民、聖人だけなのです。
その憤怒ができるのはスピード超過が重なったことで死んだ被害者今回だったら木村はなさんだけで、見ていただけ、通ってただけの自分勝手やエゴを通すような私たちが憤怒して「正義」を振りかざせる権利などないのです。
テレビだってそうです。ついこの間岡村隆史の発言を問題として人としてどうかしているなどを普通に取り上げ、肯定するような報道していました。
これってテラハのはなさんと変わらないんですよ。
人としてどうかしていたから叩いた。
そうである限り叩くほどの権利はないでしょう。
3.木村はなさんについて
はじめに今回のことについてご冥福をお祈りします。
僕は少し疑問に思った点を話させていただきます。
本当に「テラハ」に出なきゃいけなかったのか
そして木村はなさんに限らず弱さはいいことではない
まず一点目
テラハに出なきゃいけなかったかについて。
テラハというのは、番組主旨や反応を考えれば分かるように男女の恋愛模様や生活模様を映して汚いところやゲスいところを楽しむものです。
それを当然了承してたとは思います。自分が出た途端に番組方針転換にはならないでしょうから。
テラハというのは先程いった身勝手やエゴのスピード超過が多く出るような場所です。
そこに出演するということはそういった場所に居座ることを意味します。
そこで事故被害に遭わない、傷つかないためにはそれだけの強さや、逃げなどの対策を取る必要があったでしょう。
テラハに出る必要がなかったのならそんな場所回避するべきですし、行きたいという気持ちで行くのなら死なないためにもメンタルを強くする、守ってくれる人や居場所を作ることをすべきだと思います。
勿論これはテラハに出なきゃという拘束がないことを前提に書いてますので、そうでない場合は全てなんにも関係ないです、
次に弱さについて
最近弱さを美化するようなことが多いです。
ただはっきりいって
弱さというのは本人や周りのためになりません、
例えば自分がいじられた時にやめてと言えない人が、誰かがされてた時にやめなよと言えるわけないですよね。傍観者になります。
強いことは弱いことに対して明らかにいいことですし、それだけ苦労せずにすみますし、苦労させずにすみます。
僕はメンタル弱いです笑
弱くても守ってくれる人がいるなら、回避する方法を知っているならそれが強さの差を埋めるので問題ないでしょう。ただそれも守ってくれるとなると苦労をかけることにはなります。回避は本当に頭のいい方法だと思いますが。
メンタル弱いならやっていけない、やるのに苦労するような職業や行動は当然あります。
条件的に。別にやってもいいけどやったら辛いよというものです。
だから弱さというのは人を守れないという点で欠点ですし、弱いんだったら弱いなりに道を考えるべき。この視点が欠けてると思います。
芸能人は弱い人はなっちゃいけないの?と言ってる人やテラハに出るなら強くないといけないの?みたいな人もいましたが、はっきりいって不適切ではあると思いますよ。出てもいいでしょうけど
4.これからのインターネットについて
ここまで見る人いるんかな笑
文章まとめる力がないんですよね
これからのインターネットで怖いのが誹謗中傷を訴訟するコストが安くなったり高い利益を得れたりした時です、その時はインターネットの終わりだとおもいます。
多少のスピード超過をできること、エゴや身勝手が許される環境というのは人間が生きる上で快適で、必要なものだと思います。
それが上記のコスト安と利益高によって失われた時人々はいたくないでしょう。
それは戦前の日本と同じです。
非国民的言動を取らないか相互監視や公権力の圧力をかけられながら生きるのは苦しいです。
それがインターネット上の小さなエゴ、身勝手
全体にかかるわけですから当然そんな状態で生きることは望みません。
せいぜい鍵垢という形式でしか残らないでしょう。
代わりのコンテンツは生まれるかもしれませんがね…
あと誹謗中傷を具体的に取りしまる法令はいじめに対する対処見る限りないとは考えてます。
長くてすみませんまとめると
1.誹謗中傷は悪だが、誰もが持つちょっとしたエゴや身勝手のひとつでしかない
2.叩く権利あるのはそういったエゴや身勝手をやったことない、あるいは今後やらないと誓ってる聖人や善良な市民のみ
3.弱いのなら回避する、守ってもらうなどの工夫をする必要があるし、弱いことは強さではない
4.誹謗中傷を訴訟するコストが安くなったり、利益が高くなったりした時インターネットは終わる。
それはちょっとしたエゴな政府批判をしたら牢屋に入れられるような戦前の日本で生きたい人がいないように、超監視インターネットとなり、みんな辞めていくあるいは鍵垢などのところに篭もる。
法令化はいじめ問題に特別手を打っていない以上ないと思われる